Friday, January 14, 2011

解釈は無数に存在することができる。しかし、その全ては「解釈」=「思考」であって事実とは違う。思考では事実に触れることはできない。

人間が持つ疑問は殆どの場合、何の意味もない。それは存在していないモノをあちらこちらの角度から見てああーだ、こーだと解釈をつけるだけのことだから。無意味だ。それより存在しているものをみつめたほうがいい。

存在しているものをみつめることで、事実が見えてくる。それは人間の思考がなんたらかんたらと考え出すものとは全く無関係である。自分の思考に振り回されないこと。

 ただただみつめればいい。そして、そこに解釈をつけないこと。言葉にして他者に伝える必要もない。それどころか自分自身が言葉にして理解する必要すらない。

ものすごく間違えていたよ、私は。

私は徹底的に根本から間違った発言をしていた。その発言とは何かと言うと「自分を大事にしなさい。」と。ものすごく間違っていた。気が付いてみて愕然とするほどに間違っている。これは私自身のエゴが私自身を大事にするためだけの発言であるに他ならなかったのだ。


無意識に他者に自分を重ね合わせているだけに過ぎなかったのだ。自分を大事にすること、が自分のみならず他者、ひいては普遍的価値を持っているということにして自分を正当化したいだけのことだった。そして、結果として私は自分の目や耳を塞ぎ、他者の目や耳も塞いでいるようなものだったのだ。

もちろん悪意とかわかっていてそうしていたわけではない。
他の人々にもいいことだと思っていたのだ。

しかし、結果的には悪意になる。
結果的に悪意になること、それこそが本当の悪意なのだと思う。

だから本人に悪気はなかったのならいい、善意があればいい、ってものではない。

実際には「私」などという存在は取るに足らないのだ。私自身が、個人がこうだとか、どうであるなどつまらないことだ。

ふと見ればこの世界にはオドロキと不思議で一杯だ。自分がどうのこうの、など考えるなど時間の無駄だ。

それよりもこの世界を自分の腕に抱くようにして感じ取る、知る。それをしなくて生に何の感動があるだろうか?

無私とはそういうことかもしれない。無私=自己犠牲の精神ではないのは確かだ。

Tuesday, January 11, 2011

エゴを捨てようと言う行為もまたエゴなのさ。

自分のエゴを避けようとしての行動は更に強いエゴである。自分のエゴが気になるというのは実は自分自身が誰かのエゴの餌食になることを強い怒りを感じ恐れ ているだけであったりする。そこに気付くと何がエゴであるとかも考えなくなる。重要でないと気付くから。何も考えない。脊椎反射でその時に応じて適切な行 動ができるようになる。

適切っていっても結果的には本人を怒らすだけに終わる可能性もある。この可能性を恐れるのは実は自分自身が誰かのエゴの餌食になるのを恐れている から。その人と自分を無意識で同一視してるために過度に本人の気持ちを察しようとする。その人は自分ではないのに。これも本人にしてみれば迷惑な話だ。

自分の行動によって本人が怒るかどうか・・怒ったら、それはまたそれだ。自分が誰かのエゴの餌食になるという恐れや怒りがなければ、そのように割り切ることが出来る。そして、それ以上は考える必要も感じない。

他の言葉で言うと、やたらと本人の気持ちを尊重しようというのは、実は自分をかばっているだけである。このある意味で腐った精神状態から抜け出すと・・何も考えなくなる。何がエゴだとかなんだとかどうでもいいことになる。

そして、脊椎反射でその都度で適切な行動ができるようになる。身体は多くの事を知っている。おそらく・・脊椎反射は本当の意味で適切な行動を人に させるだろうと思う。かかわる人が怒ったとしても、それはなんら意味も重要度もない。怒った人が間違っているという事になるのだろう。

適切も、適切でないも虚像の対比であり「解釈」でしかないけれど、この場合は人間と言う生物の特徴を軸にした解釈。

人の身体(脳を含めた全身)は人の意識や思考が知っている事より遥かに多くに事を知っている。だから、脊椎反射でいい。結果は一見では判断できない。少なくとも人の意識や気持ちというものではその結果を計ることはできない。

言い換えれば、人の意識や思考は人の身体に劣る。身体での脊椎反射が常によりよい判断になる。それが人の意識や思考には理解できなくとも。


あ、「無意識のうちに善良で同情的な情動の崇拝者になってしまう。」はこういう意味かもな。