自分のエゴを避けようとしての行動は更に強いエゴである。自分のエゴが気になるというのは実は自分自身が誰かのエゴの餌食になることを強い怒りを感じ恐れ ているだけであったりする。そこに気付くと何がエゴであるとかも考えなくなる。重要でないと気付くから。何も考えない。脊椎反射でその時に応じて適切な行 動ができるようになる。
適切っていっても結果的には本人を怒らすだけに終わる可能性もある。この可能性を恐れるのは実は自分自身が誰かのエゴの餌食になるのを恐れている から。その人と自分を無意識で同一視してるために過度に本人の気持ちを察しようとする。その人は自分ではないのに。これも本人にしてみれば迷惑な話だ。
自分の行動によって本人が怒るかどうか・・怒ったら、それはまたそれだ。自分が誰かのエゴの餌食になるという恐れや怒りがなければ、そのように割り切ることが出来る。そして、それ以上は考える必要も感じない。
他の言葉で言うと、やたらと本人の気持ちを尊重しようというのは、実は自分をかばっているだけである。このある意味で腐った精神状態から抜け出すと・・何も考えなくなる。何がエゴだとかなんだとかどうでもいいことになる。
そして、脊椎反射でその都度で適切な行動ができるようになる。身体は多くの事を知っている。おそらく・・脊椎反射は本当の意味で適切な行動を人に させるだろうと思う。かかわる人が怒ったとしても、それはなんら意味も重要度もない。怒った人が間違っているという事になるのだろう。
適切も、適切でないも虚像の対比であり「解釈」でしかないけれど、この場合は人間と言う生物の特徴を軸にした解釈。
人の身体(脳を含めた全身)は人の意識や思考が知っている事より遥かに多くに事を知っている。だから、脊椎反射でいい。結果は一見では判断できない。少なくとも人の意識や気持ちというものではその結果を計ることはできない。
言い換えれば、人の意識や思考は人の身体に劣る。身体での脊椎反射が常によりよい判断になる。それが人の意識や思考には理解できなくとも。
あ、「無意識のうちに善良で同情的な情動の崇拝者になってしまう。」はこういう意味かもな。
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