今日は寒かったけれどいい天気でした。午前中は公園に行ってお昼を食べてから家族4人でクイーンズサイズのベッドに横になって映画を見ました。
部屋の中は暖かく窓から日の光が射していました。その光がお魚の水槽にも間接的にさしている。水がかすかな虹色に染まってる。視線は水底から水面を見上げるよう。大きな泡が水面を動かす度に虹がゆれる。泡がはじける音が絶え間なく聞こえる。
ヒナは私のおなかの上で眠りに落ちていました。湿った赤毛を鼻でなでながら、ハオの顔を時折見つめてみる。映画の夢中でころころと次々に変わる表情。
贅沢はあまり私には必要ない。適度に食べるものがあってこうして子供達と過ごせればそれでいい。旅行もしたかったら自分の足で歩いて行く先々で食 べ物採取して生きればいいんじゃないかな、くらいに思ったりもする。しかし私とは全く別種類の人々もいる。そして、その別種類の人々が間違っているとは全 く思わない。ただ、それぞれが違うというだけ。
世の中は難しいな、と思う。
そんな事を思うようになったためか・・
夫がハオにピアノの先生をつけようと提案してきた。いとこ達は全てプロのピアノレッスン/バイオリンレッスンなどを受けている。だからせめてピアノくらいは、と。
私は子供達にピアノなどを習いにいかせる気がもうなくなっていた。夫にハオに週1でピアノを教えてくれるよう頼んだ。そして将来的にハオがピアノをもっと習いたい、もっとひきたいと言うようにもしなったら、その時にプロの先生をつけることにしようと夫に私は提案した。
音楽は人生に彩りをつけてくれるから楽器演奏を習う事はいい事だと思う。
しかしプロに習うだのコンクールに出場するだの、一般教養としてだの、ということにもはや私は意味を全く感じない。芸術なんてそこらの石ころと等価値なのだという岡本太郎先生に私は同意だ。
教育/教養/知識/思考すら私は全く意味がない事だと感じるようになった。これは去年後半からの変化。
これは私の価値観。私の子供達が私と同じ価値観を持つとは限らないのだが「才能が本物なら何があっても消える事はない。」のだから大丈夫だ、と夫に説明すると夫は納得し彼自身が週一でピアノをハオに教える事に同意した。
幼児の天才教育なんて単に子供達にとっては害にしかならないと私は思っている。
日々、私は子供達と一緒にいる時間があまりないのだが出来る限り一緒にいる時間内では子供達の様子をしっかりと見たいと思う。彼らがそれぞれ何に喜びを感じるかを見極めていきたいと思う。
お金儲けが好き、物質実利至上主義的な事をすると喜びを感じる子もいるだろう。それならばそれでその子の心の向くままでよいと思う。うちの子もそうかもしれない。
物質実利至上主義だって悪い事では全然ないと私は思う。
こうならなければいけないというスタンダードは存在しない。そして理想の自己像も幻想。ありのままの自分だけが現実。でも、人はつい自分と他人を比べ、自分自身以外の何ものかになろうとしてしまう。
しかし、考えてみれば自分は一人しかいない。その自分というたったひとつの存在が何をなし得るかを見てみなくてはオモシロくないような気がする。 それはもしかするとアルコール中毒になったり麻薬中毒になったりしてどうしょもない「ダメ人間の生き方」をすることかもしれない。しかし世間一般的にダメ 人間と認識される人間=自分であるとしても、ありのままの自分を否定し他の誰かになろうとして「猿真似人生」で終わってしまっては、ありのままの自分が何 を体験するか、何を見ることが出来るかはわからないままになってしまう。それは案外、自分自身にとってのみならず世界と人類にとっても大きな損失ともなる のではないだろうか?とそう思えてならない。
ありのままの自分がダメならダメなままでとことん行き、何を体験し何を見るのかをとことんまで確かめてみたい。それが出来るのはたった一人、自分だけなのだから。
そんな気がこのごろする。
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